あんこ日記

仕事も育児もほどほどのゆるワーママ

Audibleは最高の読書ツール

Audibleという本の朗読アプリを使い始めて早一年。良いこと尽くめです。さっさと始めておけばよかった!


Audibleのメリット(私の場合)


1)    通勤&家事時間が読書時間になる
2)    ウォーキングとセットで行うとWin Winになる
3)    難しい本や今まで読んだことのないジャンルにも気軽にチャレンジできる
4)    英語の本も読める(たまに著者自身が朗読している!)


Audibleのデメリット


1)    図表やイラストが多いと話が理解しづらい
2)    耳が痛くなる
3)    外が騒がしいと聞こえづらい


結論から言うと、やはりメリットの方が格段に多いと思います。定額制のサブスクリプションサービスに変更になってからは、読める冊数が格段に増えたので、Kindle unlimitedを解約したほどです。Kindleはアプリをスマホにダウンロードして読んでいたのですが、手が塞がる通常の読書と変わらないので、通勤時間ぐらいしか読書ができなかったです。耳読を試みて、トークバック(私はandroidスマホなので)に挑戦したのですが、頻繁に止まってしまうのでイライラしてしまい続きませんでした。先日アレクサアプリで読み上げできると知ったのでダウンロードしたのですが、Audibleで読みたい本がありすぎて、まだ試せていません。それぐらいAudible充実しています。
私は昨年ごろから運動を習慣化したくてウォーキングを始めたのですが、最初はなかなか気乗りせず、毎日続けることができませんでした。Audibleを始めてからは、本の話の続きが気になって、積極的に歩く時間をとり、出かけるときも歩くようになりました。今では毎日一時間はウォーキングにいく(&Audibleで耳読をする)ことが日課になりました。

 


予想していなかったAudibleのメリットとしては、新しいジャンルの本や難しい本にも挑戦できる点です。通常の目で文字を追う読書では、興味がなく読みなれない難解な文章は途中で睡魔に襲われることがあると思います。Audibleだと朗読なので、一応聞き流すことができます。理解できているかはさておき、とりあえず最後まで聞き通すことができるので、全体像を把握しやすいと思います。私が挑戦したのは、名著と言われる文学作品(夏目漱石など)や経済学の本、翻訳作品など、一般的には少し読みづらいものをAudibleで聞いてみました。よくわからないときは、チャプターごとスキップすることもありますが。

 

 

イヤホンが耳に合わなかったりすると、長時間聞き続けることで耳が痛くなったり、脳内が騒がしく感じたりすることもあります。私は家に一人でいて家事をするときは、リビングにスマホを置いて、イヤホンなしにAudibleを再生して耳読を楽しんでいます。いろんなデメリットはあれども、それを上回るメリットがあると感じでいます。いろんな世界や視野を教えてくれる読書が、こんなに簡単に安く続けられるのは本当いい時代になったなぁと思います。

「今、ここ、わたし」がないと、常に満たされない

仕事も家庭生活もそつなくこなしているように周りからは見えるようだけど、なんだか満たされない日々を送っていた。主人はやさしく、家事も育児も協力的で、娘も元気いっぱいで、自分自身の仕事も収入はさておき、楽しくやっている、のにである。

 

色々じたばた考えた&本を読んだ結果、「今、ここ、わたし」が常に存在していなかったからだ、という結論に達した。これは断捨離のやましたひでこさんが、動画や本でもよく話していることでもある。

 

もともと片づけは好きだが、娘の成長とともに物が増え、部屋がごちゃごちゃしていくことがストレスになっていた。部屋が汚いと心が落ち着かないたちなので。平日の仕事休みのたびに、引き出しやクローゼットの中身を断捨離しては、週末にリサイクルショップに売りに行くという日々を繰り返していた。断捨離中にやましたさんの動画を流しっぱなしにして、その中で出会ったのが、「今、ここ、わたし」だった。その時は、ふ~んってなぐらいで終わっていた。

 

一年ぐらいたって、たまたま読んでいた山口周氏の著書『ビジネスの未来』『ニュータイプの時代』という本の中で、インストゥルメンタルとコンサマトリーという概念が対で紹介されていた。簡単に説明すると、前者は目的(将来)のために頑張るタイプで、後者は今をいきるタイプ(かなりざっくりな説明です!)。私たち現代人は前者になるよう教育を受けてきた。将来いい仕事を得るためにいい大学へはいるんだ、いい大学へはいるために、たくさん勉強するんだ。という具体に。これからは、後者のコンサマトリーという、「今この瞬間」を本気で楽しめる情熱を持った人こそビジネスのリーダーになっていくんだ、という文脈でした。このコンサマトリーな人こそが、やましたひでこさんの説く「今、ここ、わたし」を大切に、と通底するメッセージだなと思った。そして、私に一貫して足りなかった視点だと痛感。

 

私はいわゆる良い子で、学校でも職場でもそこそこ頑張るし、決して叱られる対象ではない優等生タイプでした。なのに、なんか不全感があって、楽しくなかった。それは結婚して親になっても同じ。なぜなら、週末のピクニックのために、金曜日には買い物をして、荷物を準備して、ルートを確認して、当日は段取りよく過ごして、夕方には明日の学校の準備をして、と常に未来の準備ばかりに自分を追い立てていたから。ピクニックの当日を楽しめなかった。お友達がきても、その事前準備と帰ったあとの片づけに気持ちがもっていかれ、「今、ここ、わたし」が心から楽しめなかったからなんだと気が付きました。

 

これに気が付いた後は、自分に「準備はちゃんとできているから、今この瞬間を楽しもう!」と言い聞かせるようにしている。なんだかんだで真面目なタイプなので、なかなかすぐには変えられないけど、この不全感というか満たされない気持ちの原因に気が付けたのは救われた。

非日常には驚きが必要:久しぶりの外食からの学び

コロナでぜんぜん外食していなかったのですが、農協がやってるスーパーマーケットに買い物にいったついでに、併設されているカフェでランチをしてきました。カフェレストランNOCAというところです。周りには田んぼと池しかない田舎(すみません)にしては、とてもおしゃれなカフェです。インテリアも都会的で、店内もゆったり、オープンキッチンで解放感があります。メニューは、ピザ、パスタ、ハンバーグやチキンのプレートに、セットで地元野菜のお惣菜を加えることができます。

 

昼時で並んでいたけど、久しぶりに外食したかったので入ってみました。店頭で案内していたおじさまウェイターがとても丁寧で、好印象。やっと中に入ると、メニューは自分のスマホからアクセスして注文するスタイルでした。最近は寿司店でも注文専用端末を置いて注文するところはあるけれど、お客さんのスマホからさせるシステムみたいです。

 

私たち家族が頼んだのは、ハンバーグプレート、明石鯛と葱のパスタ、キッズピザプレート。私が葱を玉ねぎと勘違いしていて、運ばれてきた葱まみれのパスタにがっかり(葱、嫌いなんです)。ということで、主人とハンバーグプレートを交換してもらい食す。が、まぁ普通。なんなら主人がつくるハンバーグの方がおいしい。それに添えてある野菜がめっちゃ少ない。これでは私は足りない!!

 

葱をきれいに主人が食べてくれたので、パスタの半分を食す。が、一口食べて、とても残念。まったくアルデンテではない。自分でゆでて食べたパスタの方が、正直おいしいかな。

 

最後に支払い。あまり現金を持ち歩かない私はクレジットカードで支払う気満々だったが、なんと現金かPayPayのみでした。注文はスマホでさせるのに、クレカ支払いだめなの?!とちょっとびっくり。隣の農協ですら、クレカ支払い可能ですけど。それなら、入店前に提示してほしい。

久しぶりの外食だったので、期待外れだった残念だけど、今回の学びは以下。

  • 主人が作る家の食事のクオリティが結構高いのかも、という気づき。
  • 外食に非日常を求める子持ち主婦(私)には、食事に驚きが欲しいということ。

キッズプレートのピザを一口食べた主人によると、ピザはおいしかったらしいので、次回行くならピザを頼むのはありかもね。でも、ピザも家で作れちゃうから、また行くかな、どうかな。

仕事のモヤモヤと畳み人と資本主義

上司の上司から、店舗運営を改善するために協力してほしいと仕事を振られた。それを実行に移そうとするも、一人でするのは業務量的に無理だし、協力も仰ごうにもイマイチ乗り気になってもらえない。というか、変化したそうにみえない。なんだか一人で空回りしている気分。そして、なにより自分自身がその業務に意味を見いだせないでいる。異動前の店舗では、会議で意見を出し合って、運営方法をみんなで模索してたので、今の店舗の属人的なやり方に戸惑いがあるうえ、情報を共有するという観点が上司に欠如しているところに、なんかモヤモヤする。

 

上司はメモも取らないので、同じことを何度も聞いてくる。情報共有手段であれタブレットの使い方もおぼつかない。お客さんに迷惑が掛からないように、こちらが先回りして確認すると、その作業に膨大な時間がかかり、本来やりたい仕事ができない。どうして仕事を覚えようとしないんだろう。効率化しないんだろう。なんて気持ちが沸き上がるたびに、私はミヒャエル・エンデ著『モモ』に登場する時間泥棒になった気がして、自分がいやになる。仕事では、効率化を進めようと頑張るが、この効率化には意味があるんだろうかと薄々感じている。実はもっと上司みたいにのんびりしたいのかな。でも、それでは会社に売り上げが上がらない。そもそもこの事業に存続の意味はあるのか。考えが堂々巡りで、何から手を付ければいいのか、どう考えを整理すればいいのかわからない。

さっき聴き終えた本『「畳み人」という選択――「本当にやりたいこと」ができる』では、仕事の大きなプロジェクトを着実に実行していく人(=畳み人)の視点が、著者の実体験をふんだんに盛り込んで説明されていた。ビジネスで成功する人は、愚直に目の前の仕事に取組みながらも、自分で勉強をし、そのプロセスを楽しんでいるのはよく分かった。分かったけれど、まったく共感できなかった。資本主義の世界ではビジネスで成功することが大切だし、新しい価値を創造することが収益につながるからこそ、著者のような方が活躍する。資本主義の問題提起する本を読んだばかりで、自分の仕事への疑問も抱えている今の私には、その新しい価値は本当に意味のあることなのか、という懐疑にしか受け取れなかった。ある意味、『モモ』や『人新世の「資本論」』と真逆の本。バリバリ仕事したい人にはおすすめの本。人生の意味を考える人には、とても些末に見える本。という気がする。

 

今の資本主義の世界で成功したいなら、畳み人のように仕事をするのが得策。ただ、本当に心からそれがやりたいことなのかと言われると、まったくそうではないのが本音。自分にも誰かにとっても意味のある仕事で、生きていける程度の収入が得られればいいのだろうけど、バランスをとるのはなかなか難しい。はぁ。

『モモ』は児童文学ではない。

本を読みたいと思っているのに、以前ほど読めていない。Kindleアプリを使い始めて、どんどんダウンロードしているのに、読むスピードが追い付いていない。まるで、食べもしないものを「念のため!保存用に!いつかいるかも!」とため込むタメコミアンになってて、Kindleのライブラリは大混乱中。ついついおすすめの本を探す方に時間を費やして、肝心の読書に時間をまったく振り向けられていないことを反省。一人で読みこなせなさそうな本を読むために、Audibleを使い始めた。まだ、無料お試し期間で、初めに選んだのかミヒャエル・エンデの『モモ』。山口周さんや磯野真穂さんが出演していたNHKドキュメンタリーで取り上げられていて、興味はあったけど、児童文学を自力で読み上げる自信がなかったのでAudibleでトライ。結果、めちゃめちゃ面白かった!正直、笑える話では全くない(笑)この本をドキュメンタリーの中に登場させているのも秀逸。

 

モモという髪はもじゃもじゃな浮浪児が、ある円形劇場の跡地に住み着きながら、町のみんなと交流していく。諍いがあっても、みなモモに話を聞いてもらうと何故か解決するという、不思議な力をもった女の子モモ。モモはみなの話にじっくり耳を傾け、時間を分け与えている。ところが、ある時町に灰色の男たちが現れ、みなに時間の貯蓄の大切さ、時間を無駄にすることがいかに悪であるかを説き、いつしか町のみなはあくせく働き、昔のようにモモに会いにこなくなってしまう。灰色の男たちは時間泥棒なのだ。

町の人たちの一人、ある床屋さんが、今まではお客さんとおしゃべりをしながら髪を切り、年老いた母の介護にも時間を割き、寝る前にはゆっくり窓辺でくつろいでいた生活を、時間貯蓄銀行員の名乗る灰色の男に、いかに時間を浪費しているかをたたみかけるように詰め寄られ、ついにはお客さんのカットを今までの半分で終わらせ、店の壁には時間の大切さを謳う標語を掲げる様子は、現代の会社そのものだと背筋が凍った。灰色の男たちの論理である、時間を無駄にせず、短時間で多くのことを成し遂げること(いわゆる生産性を上げること)は、まさにどの会社の課題でもあり、本屋に並ぶ時間術の自己啓発本の内容そのものである。私自身が、そういう本を読んで、実践しようとしてきたことでもある。自分は灰色の男たちのマインドに完全に侵されているんだなと痛感。この本1970年代に出版されているけど、50年たった今でも全然色あせてない。すごい先見の明よね、著者のエンデさん。

 

資本主義のシステムの一部として完全に組み込まれている状態で、いかに時間に支配されず、心豊かに過ごしていけるのか。もうこれ以上モノはいらない。コンビニもなくても大丈夫。スマホもないならないで、楽しく過ごしてた。けど、資本主義では常に新しいサービスを提供し、ライバルに先を越されないようにしなければ生き残れない。知らぬ間に望んでもないもの(私にとってはスマホ)が社会インフラとして欠かせないものになっている。今では、そんなものいらなかったお年寄りにまでスマホを使いこなすよう指導しなくてはならない。仏教的な「足るを知る」精神では、ビジネスはできない。一生活者としては「足るを知る」を実践したいから、家を片付け、娯楽産業にお金を使わないように心掛けてはいるが、ビジネスをする方からしたら、それでは経済が回らない。会社で働く身としては、お客さんに一つでも多くの商品を買ってもらわないと困る。なんだか自分でも矛盾していると感じることが多い。

 

まだ読み終えてないけれど、斎藤幸平さんが『人新世の「資本論」』で主張する脱成長コミュニズムは一つの解になるのかしら。

私がゲーム嫌いな理由

昔からテレビゲームってあまり好きじゃない。というか、好きになってはいけない気がしてた、と言ったほうが正しい。小学生のころ、ファミコン(なつかし!)のスーパーマリオにハマりかけ、中学生のころはドクターマリオにハマりかけ(マリオばっかり)、妊婦のときは、パソコンの上海(麻雀パイを減らしていくゲーム)にハマりかけました。どれも、夜更かしする日が数日続いた段階で、「あ、そろそろやばいな」と思って、ぱったりゲームをしなくなりました。やってる最中は面白いし、負けた時は「次こそ勝つぞ!」と再スタートボタンを押すのですが、やり終えたときの虚無感がなんとも言えない。社会に役に立つわけでもなく、自分のためになっているわけでもない。「私なにやってたんだ」感に襲われるのがいやで、ゲームを好きになってはいけないんだ、と思いこむようになってた。

 

でも、よく考えれば、社会の役に立とうが立たまいが、自分が楽しいと思うのであれば、ゲームの没頭するのもありよね。「役に立つ=善」という思想に染まりすぎてて、ゲームのように一見役に立たないもの(漫画も然り)を自然と遠ざけるようになってしまし、仕舞にはなにかに没頭するという経験をしないまま大人になってしまった気がする。あまりに良い子ちゃん過ぎた子供時代だったことをいまさら後悔中。

 

ゲーム大好きでゲームしかしてなかった兄は、親からするとホント大変で、一般的にみるとかなりハチャメチャなライフスタイルを昔も今もしているけれど(昼夜逆転してたり、学校行かなかったり)、私よりも「自分」というものがあるのかもしれない。でも、ああはなりたくないしな・・・今さら。

既存のシステムにハマらないとコストがかかる、けどチャンスもある

勝間和代さんのYouTube動画に影響を受けて、スマートウォッチを20213月に購入。アップルウォッチとかではなく、超格安3000円くらいの中国製です(笑)歩数をしりたかっただけだから、いいんです。それ以来、どこでも歩いていく習慣ができ、天気がいい日はウォーキング1時間しています。ウォーキング中は音楽などなにも聞かず、ぼーっと考えことをして景色眺めているだけです。そんなときに、小学校のグラウンドを通りかかったときにふと、タイトルを思いつきました。

 

児童たちが体操着を着てグラウンドででてきて(多分、低学年)、授業が始まるまでの間ぴょんぴょんジャンプしたり、ジャングルジムにのぼったり、誰一人じっとしていない様子でした。それを見て、学校に行けば、ただ体育の授業を受けるだけで、着替えて移動して校庭にでてと、こんなに体を動かすんだなぁと改めて実感。飛び跳ねても誰も怒らないしね。

 

コロナや不登校などに対応するため、学校の授業をオンラインにしようという流れは大歓迎。でも、既存のシステムである学校という場で、そのカリキュラムに沿って学べる児童は、体を毎日動かして、栄養バランスの良い給食をたべることが自然と叶えられる。自宅でオンライン授業は受けられても、毎日バランスの良い昼食を用意するのは至難の業だし、体を動かすのもかなり意識的にしないと、ついつい座りっぱなしになってしまう。そういう意味で、既存のシステムにハマらないという選択をすると、健康維持に意志力というコストを支払う必要があるんだなとつくづく感じました。

 

社会システムも同様で、正社員というモデルケースに当てはまらないフリーランスや多種多様な形態で仕事をしている人は、税金やら社会保険の扱いが難しくなってきてしまいます。抜け穴もあるだろうから、そういう面ではお得なのかもしれないけど(笑)つまり、人と違うことをするにはなにかとコストがかかるけど、チャンスもそこにしかないのかなぁと、小学校のグラウンドを見ながら感じました。